校長室から(2023年度)
校長室から(2022年度)
私の3月11日(校長ブログ)
2023年3月10日 16時20分2011年3月11日14時46分、私は福島県にいました。
茨城県からの派遣で、福島県西郷村にある「国立那須甲子青少年自然の家」に勤務していたからです。
もうすぐ派遣1年目が終わろうとしていたころ、同じく他県から派遣されている先輩職員と一緒に、教育事業の準備をしていました。
突然、いままで経験したことがないような大きな地震に襲われました。
いつもならすぐに終わるであろうと思っていた地震はなかなか揺れが収まらず、急いで施設にいる利用者をみんなで外に避難させました。
その日、私は宿直(泊まりの仕事)でした。
夕方、事務室で地震の情報を得るためにテレビを見ると、画面には日本地図の東側に赤や黄色が点滅している映像がありました。
一体何が起こっているのかわからない状況でした。
それが津波警報だと知ったのはその後すぐのことでした。
さっきの大きな地震の影響で、東日本の海岸では大津波がきていることを知りました。
とんでもないことが起きた。どのくらいの被害がでるのだろうか。
その時は、まだ地震、津波の被害しかありませんでした。
そして、今までに経験したことがないような大地震、大津波だということが判明するとともに、数日後またテレビには今まで見たことがないような映像が映し出されていました。
福島第1原発の様子です。
原発が爆発している!
想定外の津波の影響で、原発の施設が大きな被害を受け、溶けた核燃料のカバーなどから発生した大量の水素が建物の上部にたまり、水素爆発が起きたのです。
大地震、大津波に加え、原発事故
福島は、東日本は、どうなってしまうのか?! そんな状況でした。
原発事故から数日後、那須甲子青少年自然の家は、避難所となりました。
満杯に入っても400名ほどの定員のところに、多いときには620名をこえる方々が避難してきました。
私たち職員は、これまでやったことがないような避難所運営を行っていくことになりました。
事務室は、24時間体制、職員は3交代で避難所運営にあたり、約半年間の避難所運営が続きました。
全国各地から医療関係者やボランティア、行政関係の方々など、事務室に今まで会ったことがないような方々が毎日のように新しく入ってきました。
現在のように防災教育や避難所運営が当たり前になる前だったので、職員がみんなで話し合い協力して手探りの状態から避難所運営を行っていた状況でした。
その後、状況が少しずつ落ち着いてきてからは、私たちは避難者の方々向けに事業を行ったりしました。子供、成人、高齢者などとカテゴリーを分け、少しでも避難生活での気を紛らわして欲しいと思ったからです。
その年の夏には、福島県内の小中学生を対象として夏休み中に3泊4日の「リフレッシュキャンプ」を11回開催しました。のべ約3,000人の子供たちのキャンプに対応しました。
そして、翌年「なすかしドリームプロジェクト」という14泊15日の福島復興支援事業を担当しました。
今年の夏に、その10年後の再会プロジェクトを実施しました。
福島県は、今でも第2のふるさとだと思っています。
そして、この大地震、避難所運営が、私に大きな影響を与えました。
若い頃の私は、何を好んでボランティアなんかしているんだろう?と言った人間でした。
それでも、この避難所運営を通して、全国各地から応援に来てくれる様々なボランティアの方々、医療関係者の方々、本当に素晴らしい方々にたくさん会うことができました。
そして、手探りではありましたが、当時の職員と協力して約半年にも及ぶ避難所運営もさせていただきました。避難者の方々に対して、何ができたかと言えば、何もたいしたことはできていませんでしたが、避難所から去って行く時には、「本当にお世話になりました。ありがとうございました。」とお声かけいただきました。
こんな私でも何か人の役に立って、感謝してもらえるんだということを感じたときに、「人のために」という意識が私の中に芽生えた瞬間でした。
その後、同僚と一緒に、被害が大きかった宮城県にもボランティアで何度か手伝いに行ったり、常総市の水害や、栃木県での水害の時も、私にできることとして少しでも役に立てればとボランティアに出かけるようになりました。
私の3月11日は、私を変えた3月11日です。
毎年、しっかりと忘れないように、そしてこれからも福島や東北の復興にも少しでも役に立てるように行動していきたいと思います。
駒込小学校長 鈴木 昭博
警察車両で避難者が避難してくる様子 避難者が助け合って避難物資を所に搬入している様子
宮城県亘理町にボランティアに行ったときの様子。
当時の海岸沿いの被害は言葉では表せないような状況。呆然としました。